ロマンチック



 その時の丹羽イズミは随分と上機嫌そうに、あるいは妙に高揚していたように見えた。
薄い液晶テレビに流れる、大して興味を引かれることもない深夜のトーク番組から目を逸らし、よれた紺色のカーペットをただ視界の中にとらえ、ピントを合わせる気力もないその人の肩にまとわりつくかのように、丹羽は白砂の背を抱きしめていた。

「聞いて白砂、俺今日からちょうど一か月後が誕生日なんだよね。クリスマスイヴなんだよ。」
「…………」
「白砂。」

 白砂は抵抗する様子こそ見せなかったが、丹羽に構うような様子もなかった。やたら大きく聞こえる時計の秒針の音をラジオ代わりに眠れぬ夜を耐え凌いでいる間に、一人の男がちょっかいを出してくる。それだけのことだ。丹羽は白砂に寄り添う傍ら、手持ち無沙汰であった右手で白砂の少し痛んだ癖毛を弄ぶ。白砂は一瞬眉を顰めたが、そのことを咎める余裕もなかった。

「なに、そんなに俺がうっとうしい?」
「……何錠飲んだ?」
「質問を質問で返さないで…… 途中から数えてない。一瓶いかないくらいだと思う。」

 視線を机の方に移動させればそこには何かの市販薬の瓶が転がり、丹羽が飲み残した白い錠剤がいくつか散らばっていた。これが何の薬かは知らないが、丹羽が摂取した量が用法用量を守って一回に摂取する量ではないことくらいすぐに分かる。
「軽蔑する?」
「軽蔑は……しない、けど、困る……」
 軽蔑はしないという言葉に偽りはない。けれど、過剰摂取、レッグカット。自傷は白砂には到底理解のできない行為であり、白砂は丹羽がそれを起こした日がどうしようもなく憂鬱だった。ただでさえ窮屈でたまらないのに、追い打ちをかけるように理解のできないことが伸し掛かる。本当に死んでしまうのではないかと思うこともある。過ぎた未知は恐怖以外の何物でもない。

「また俺が適当なことして適当言ってると思ってる? 嘘じゃないからね。誕生日の話は……」
「…………」
「他にこんなどうでもいいこと話せる人いないんだよ。ね、聞いてて。相槌なんか打たなくていいし、何にもしなくていいから、俺に喋らせて」

 少し時間を置いて、白砂が「聞くから離れろ」と少し丹羽の方を振り返って言った。振り返って覗き込まれた丹羽の瞳の黒さに思わず息を吞んだ。丹羽は意外だとでも言いたげに目をほんの少し丸くすると白砂を抱きしめていた腕を離し、後ろに置かれていたソファにもたれ掛りながら話し始めた。

「クリスマスイヴ。俺の誕生日。嬉しいことが重なってるからいいねってよく言われてたけど、何が嬉しいんだろうねって。日本人なんてほとんど無宗教だし。」

 白砂は話し始めた丹羽に視線を向けていた。
真剣に聞くだけ馬鹿馬鹿しいことだと思っていながらも、自然と白砂は丹羽の言葉を辿っていた。

「キリストの誕生日って言われても多分ほとんどの人がへえ、そうなんだとしかならないでしょ…… イヴなんて前夜だから、いろんな人に信仰されてる人の誕生日でもない、俺にとってはものすごく中途半端な日で。」
「…………」
「ハロウィンが終われば次はクリスマスでしょ。どうでもいい人たちが本当はどうでもいいと思ってることで騒いで、俺が生まれた日はそういう日と一緒なの。クリスマスケーキと誕生日ケーキが一緒だねとか、知らないよそんなこと……」

 丹羽の視線は白砂の方には向いていない。言葉としては成り立っているが、文章として起こしてみると支離滅裂だ。ただ壁に向かって話し続けているようだった。ソファにもたれ掛かる体幹はすでに崩れ切っており、丹羽は片腕で顔を隠しているようだった。隠された顔と腕の間から言葉が波のようにあふれ返る。その声色は随分自嘲めいていた。

「どうでもいいんだよ、でも世間様は特別な日みたいに扱うから、俺は自分が生まれた日を忘れられない…… どうせ忘れられないなら、お前に祝ってもらえれば少しはあの日が好きになれる気がする」

 だから祝ってよ、と、自嘲と恥と懇願の全てがない交ぜになって消え入りそうになった言葉がテレビの明かりだけで照らされる晩秋のリビングに落ちた。

「……なんで今そんな話するんだよ」
「一か月後だから。白砂、おつかいいってきて、そこまで甘くないやつで、どのロウソク買えばいいか教えてあげるから……」

 丹羽が崩れ落ちる。ソファから滑り落ちたその体を白砂が咄嗟に受け止めることはなかった。少しの間を置いて、心底気まずそうに固い床になだれ込んだ丹羽の体を抱き上げ、ソファに寝かせた。普段とは違う意味で困惑するような有様だった。今回は普段よりも「やって」しまったのだろうか、などと白砂が考えていると、丹羽の口が薄く開き、膝立ちであった白砂の袖を掴んだ。

「白砂、お前は多分俺にとって最後なの」
「は……?」
「多分、起きたら今言ってることとか全部忘れる、だから今のうちに色々言うから、俺は忘れて、お前だけ覚えてることがいっぱい増えますように」
「…………」
「あは…… シラフでこれ聞かされてるのほんとにかわいそうだな、ほんとにかわいそうだよ」
 
 白砂の顔を見上げ、丹羽は困ったように笑った。
その時の丹羽は、脳内でどれだけ否定しても、ひとりの人間にしか見えなかった。

 液晶から漏れる光が逆光をつくり、白砂の顔に濃く影を落とす。
白砂は丹羽が意識を手放しその手が滑り落ちるときまで、袖を掴まれた手を振り払うことができなかった。
 

〘形動〙 (romantic)
1. 現実離れした甘美で理想的な雰囲気やなりゆきであるさま。
   また、その風を好んだり望んだりするさま。

 

2022. 12.24